2025年07月30日 投稿者:秋田真志(当財団理事・アドバイザー弁護士) 出典:後藤・しんゆう法律事務所ブログ
難事件に対する総合支援の意義--アドバイザー弁護士の立場から
本文
準備に関心初回の打合せでそれまでの弁護活動の概要を聞き、素直に感心した。
容易ではないと思われる否認事件において、被告人の説明を裏付け、 検察官立証を弾劾すべく、 精力的な情報収集がなされていた。
児童虐待の加害者が抱える課題について研究している学者と法医学者が弁護側証人として確保されていたのは非常に大きかった。
法医学者の証言予定をもとにケースセオリーも確立していた。
ここまで戦略準備がなされていると、 公判直前の申込みであっても、戦術はどのようにも立てられる。
公判前整理手続
他方で、打合せ・公判前整理手続での裁判所・検察官との対応には苦労しておられた。
検察官が傍若無人で、 裁判所は分かったつもりで合理性しか追求せず、その結果経験が十分でない弁護人だけが譲歩を迫られる状況はよく聞こえてくるところ (特に公判直前の時期) であるが、本件の伝え聞く印象も同様であった (「裁判官室で2時間こってりしぼられ(?)ました」という報告もあった)。
このような状況下では、例えば当然の証拠調べ請求であっても「やっていいのだろうか」「どうやったらいいのだろうか」「やっても無駄ではないか」といった不安がよぎり、手が止まったりしかねない。
検察官からの一部同意要請、 裁判所からの弁号証の撤回要請などは「断ることができるのか」「断るのは変なのではないか」「断ったら印象が悪くないか」と強要的に受け取らざるを得なくなる。
本件での弁護人の活動や方針に大きな問題はなく、 「大丈夫ですよ」「こう言ったらいいですよ」と背中を後押しする仕事が多かったように思う。
弁護人の報告を拝見すると、この点の意義が一番大きかったのではないか。
ただ、弁護人において、ずさんな検察官証拠への対応に意識が集中しすぎて(本件の捜査検事の見立てを誤らせた可能性があるので無理もないが) いたり、弁号証のパワーを悲観しすぎていたりする感もあり、その点は修正させていただいたように思う。
このようにやるべきことを最後までやれていると、思いどおりになることも多い。
本件でも、(これもよくあることだが) 最終的には裁判所が 「弁護人の顔も立てましょうか」とばかりに歩み寄ってきた。
なお、本件で特徴的だと感じたのは、裁判所が被害者の遺体写真について検察官にイラスト等への変更を求めず、 採否を留保したまま公判に進んだことだった。
遺体の状況からお湯のかかり具合をどう見るか、熱傷の程度をどう見るかは、それぞれの専門家の証言で把握するという法廷を予定しているはずなのにである。
仮に遺体写真を見ることになったとすると、「最終的に専門家の証言を聞いても決め手が得られなかったら写真を見ましょう」という理由になるはずだが、 「裁判官と裁判員が写真を見たら専門家以上に何かが分かる」と考えているという意味で「印象派」すぎるといわざるをえない。
検察官は「裁判員の心情に配慮して短時間見せるだけ」とも説明していたが、「印象派」を自白したものといえる。
公判
1 冒頭陳述冒険の出だしは、 私が裁判員裁判で最も苦労する部分である。
本件では、児童虐待の加害者が抱える課題について、研究している学者が弁護側証人として確保されていたので、即座に決まった。
児童虐待という印象の悪さを、 弁護人の強みに変える一言を言えばいいのである。
2 証人尋問・被告人質問
弁護人から尋問事項案が提示され、それをもとに議論するかたちで進めていった。
尋問事項自体には問題がなく(記録を読み込んでおられることがよく分かった)、獲得目標を明確にしつつ、質問の順序を決めるのが主要な作業だったと思う。
注意点、 特定の証人 (法医学者) の特性などについても共有させていただいた。
確かに、弁護人の報告にもあるように、尋問には一定の技術が備わっている必要はあるが、 時間があれば当然の支援として尋問技術についても指導するので、遠慮なく要望していただきたい。
3 弁論
弁護人の報告を拝見して思い出したが、 確かに「冷静と情熱のあいだ」と表現した記憶がある。
確かに私にとっては、 弁論は冷静に公判に現れた証拠の意味を解説する場であり、情熱的にそれまで我慢していた裁判所と検察官への怒りやあきれを表現する場である。
本件では、専門家証人が複数となった事案であるが、弁護側証人の証言だけが信用できないなどということはない、検察側証人の証言は相互に食い違っていて信用できない、と冷静に解説し、 被告人の行動が悪意に基づくものではなく未熟さゆえのものであることを冷静に説明しつつ、(希なことではないが)起訴時の証拠構造と公判での証拠構造が変わってしまっていること (その原因として当初の鑑定書がずさんであること)について、 情熱的に「なんやったんやあれは!」と叫ぶことで弁論が完成した。
弁護人の準備が尽くされていたので、 弁論のブラッシュアップについてもさほど苦労はなかった。
最後に
判決は、 検察官も弁護人も主張していない第3の方向から殺意を否定したが、 その前提となったのは、連載|先端的弁護による冤罪防止プロジェクト、始動!児童虐待の加害者が抱える課題について研究している学者の証言である。
弁護人の伝えたいことがきちんと伝わると、 検察官と互角以上に渡り合え、 結論を変えられることを示す好例となった。
アドバイザー弁護士としてのやりがいを感じることができた事件であり、弁護人とプロジェクトに感謝申し上げる。
準備に関心初回の打合せでそれまでの弁護活動の概要を聞き、素直に感心した。
容易ではないと思われる否認事件において、被告人の説明を裏付け、 検察官立証を弾劾すべく、 精力的な情報収集がなされていた。
児童虐待の加害者が抱える課題について研究している学者と法医学者が弁護側証人として確保されていたのは非常に大きかった。
法医学者の証言予定をもとにケースセオリーも確立していた。
ここまで戦略準備がなされていると、 公判直前の申込みであっても、戦術はどのようにも立てられる。
公判前整理手続
他方で、打合せ・公判前整理手続での裁判所・検察官との対応には苦労しておられた。
検察官が傍若無人で、 裁判所は分かったつもりで合理性しか追求せず、その結果経験が十分でない弁護人だけが譲歩を迫られる状況はよく聞こえてくるところ (特に公判直前の時期) であるが、本件の伝え聞く印象も同様であった (「裁判官室で2時間こってりしぼられ(?)ました」という報告もあった)。
このような状況下では、例えば当然の証拠調べ請求であっても「やっていいのだろうか」「どうやったらいいのだろうか」「やっても無駄ではないか」といった不安がよぎり、手が止まったりしかねない。
検察官からの一部同意要請、 裁判所からの弁号証の撤回要請などは「断ることができるのか」「断るのは変なのではないか」「断ったら印象が悪くないか」と強要的に受け取らざるを得なくなる。
本件での弁護人の活動や方針に大きな問題はなく、 「大丈夫ですよ」「こう言ったらいいですよ」と背中を後押しする仕事が多かったように思う。
弁護人の報告を拝見すると、この点の意義が一番大きかったのではないか。
ただ、弁護人において、ずさんな検察官証拠への対応に意識が集中しすぎて(本件の捜査検事の見立てを誤らせた可能性があるので無理もないが) いたり、弁号証のパワーを悲観しすぎていたりする感もあり、その点は修正させていただいたように思う。
このようにやるべきことを最後までやれていると、思いどおりになることも多い。
本件でも、(これもよくあることだが) 最終的には裁判所が 「弁護人の顔も立てましょうか」とばかりに歩み寄ってきた。
なお、本件で特徴的だと感じたのは、裁判所が被害者の遺体写真について検察官にイラスト等への変更を求めず、 採否を留保したまま公判に進んだことだった。
遺体の状況からお湯のかかり具合をどう見るか、熱傷の程度をどう見るかは、それぞれの専門家の証言で把握するという法廷を予定しているはずなのにである。
仮に遺体写真を見ることになったとすると、「最終的に専門家の証言を聞いても決め手が得られなかったら写真を見ましょう」という理由になるはずだが、 「裁判官と裁判員が写真を見たら専門家以上に何かが分かる」と考えているという意味で「印象派」すぎるといわざるをえない。
検察官は「裁判員の心情に配慮して短時間見せるだけ」とも説明していたが、「印象派」を自白したものといえる。
公判
1 冒頭陳述冒険の出だしは、 私が裁判員裁判で最も苦労する部分である。
本件では、児童虐待の加害者が抱える課題について、研究している学者が弁護側証人として確保されていたので、即座に決まった。
児童虐待という印象の悪さを、 弁護人の強みに変える一言を言えばいいのである。
2 証人尋問・被告人質問
弁護人から尋問事項案が提示され、それをもとに議論するかたちで進めていった。
尋問事項自体には問題がなく(記録を読み込んでおられることがよく分かった)、獲得目標を明確にしつつ、質問の順序を決めるのが主要な作業だったと思う。
注意点、 特定の証人 (法医学者) の特性などについても共有させていただいた。
確かに、弁護人の報告にもあるように、尋問には一定の技術が備わっている必要はあるが、 時間があれば当然の支援として尋問技術についても指導するので、遠慮なく要望していただきたい。
3 弁論
弁護人の報告を拝見して思い出したが、 確かに「冷静と情熱のあいだ」と表現した記憶がある。
確かに私にとっては、 弁論は冷静に公判に現れた証拠の意味を解説する場であり、情熱的にそれまで我慢していた裁判所と検察官への怒りやあきれを表現する場である。
本件では、専門家証人が複数となった事案であるが、弁護側証人の証言だけが信用できないなどということはない、検察側証人の証言は相互に食い違っていて信用できない、と冷静に解説し、 被告人の行動が悪意に基づくものではなく未熟さゆえのものであることを冷静に説明しつつ、(希なことではないが)起訴時の証拠構造と公判での証拠構造が変わってしまっていること (その原因として当初の鑑定書がずさんであること)について、 情熱的に「なんやったんやあれは!」と叫ぶことで弁論が完成した。
弁護人の準備が尽くされていたので、 弁論のブラッシュアップについてもさほど苦労はなかった。
最後に
判決は、 検察官も弁護人も主張していない第3の方向から殺意を否定したが、 その前提となったのは、連載|先端的弁護による冤罪防止プロジェクト、始動!児童虐待の加害者が抱える課題について研究している学者の証言である。
弁護人の伝えたいことがきちんと伝わると、 検察官と互角以上に渡り合え、 結論を変えられることを示す好例となった。
アドバイザー弁護士としてのやりがいを感じることができた事件であり、弁護人とプロジェクトに感謝申し上げる。